2016/2017 初夏 青嵐
珍しく電車に揺られていると田園風景が清々しく、後先考えずに降りてしまった。切符をまた買わねばならないというのに勿体の無いことではあるが、新緑の色をどうしても見過ごせなくなったのである。
改札に誰も居ないことを見ると、次の電車はなかなか来るまい。先方とは時間の約束もしていない、時は余るほどある。などと言い訳を胸に、見知らぬ町を散歩することにした。
見知らぬとはいえ、京都の外れである。目を凝らせば市街がぼんやりと蜃気楼のように見える程度に、遠く無い。
ふらふらと田園の中を歩いていると、緑は色だけでは無く夏の香りをもって、私を迎えているのだった。
田の中に人影を見て、大家ととても良く似ていたので声をかけてしまうと、人違いであった。
「知人によく似ていたのです」
「あら、それは奇遇」
後姿は確かに似ていたが、年格好は私と同じ頃である。とても、夫を亡くした下宿屋の女主人と見間違えたとは言えまい。
「京都に遊びに来てはったん?」
私の抱えた手土産の包みを、ちらりと彼女は見て言う。
「いえ、京都の学校に行ってまして。人を訪ねる途中、緑に誘われたのです」
なるほど、と女は言い、ちょっと見せてと包みを受けた。
「この香り、懐かしいわ。母が、八ッ橋屋の近くにまだ住んでるんやけど、こっちから行くことはたまにしか無いし」
無邪気に包み紙に顔を寄せ匂いを嗅ぎ、笑った時に瑞々しい肌に出来た皺を見て、なるほどそうであったかと合点がいった。後ろ姿が似ている筈である。
そのとき、一筋の緑の風が、電車についた町の匂いを含ませながら過ぎていった。強い風に、あ、と女が小さく叫ぶ。風は、手の内の包みを攫って、青々とした稲穂の間を抜けていった。
「どうしよう。青嵐に獲られてしもた」
「では、また買いに行くとしましょう」
女を振り返った。
「よろしければ、懐かしいご実家にお寄りついでにどうですか」
是非、と、彼女は私の隣に並んだ。
青嵐は、肉桂の香りをどこまで運んでいくのであろう。