2012/2013 夏 天の川
鴨川に星が降るというので、下宿の学生と大家と連れ立って川原まで行くことになった。同じ場所に住んでいるというのに、あまり目にしたことの無い学生である。大家に尋ねれば、つい三ヶ月程前に私の隣に住み始めたという。まだ町に馴染んでいないため、私ならば気に掛けるまいと誘ったらしい。
「隣といえば、あの、数学家の八年生」
「この間、お故郷に帰らはりました」
「長い間ねばっていたというのに、とうとうですか」
「何やら必死の形相の親御さんがいらっしゃってね、ご本人は遂にこの時が来たかと笑てはりました」
彼ならばそうであろうな、と、夏にはいつも浴衣に高下駄のような奇妙な履物で歩いていた姿を思い出した。特別仲が良かった訳で無く挨拶を交わす程度だったが、居ないと知ると淋しく思うのだから、勝手なものである。
数学家のことを考えていると、隣に並んでいた学生が口を開いた。
「これ」
「これ、とは」
「この香りですが、こちらからなのですよね」
ああ、と、私は自分たちが八ッ橋屋の前を通っているのを知った。長年住んでいると、慣れて考え事の最中などは気付いてすら居ないらしい。
「肉桂の香りですね。八ッ橋です」
「それは、京都らしい」
少し足をとめる。
「気になっていましたか」
「ええ、懐かしいようでいてこれまでじっくりと嗅いだことの無い香りだったので」
うまいことを言うと思う。
「祖母が、存命の折はよく食べていました」
「思い出の香り、ですか」
「そこまで大層なものでは。でも、この下宿に決めて良かった」
大家が、くすりと少女のように笑みをもらしていた。私も、この下宿に決めて良かったと思う。
足元を見れば、夕立の残りであろう水溜りが目に入る。群青の空が映り、中には星が降り注いでいた。
川で無くても降るほどに星があるかと見上げれば、上は一面の星であった。天の川がやってきたのである。 学生に教えると、さらにまたここへ来て良かったという表情を強めて、真剣に群青の水溜りをのぞいていた。