2018/2019 夏 入道雲
論文に必要な書籍をもとめて歩き回っていたため、部屋に戻ると座り込んでしまった。水を飲むのも億劫であるし、昼時はとっくに過ぎている。朝から何も口にしていないというのに、食欲もわいてこない。どうやら暑気にあたってしまったらしい。
この日照りの中帽子も被らず出かけたのがまずかったかと後悔しつつ、行儀は悪いが着替えもせずに大の字に寝転がることにした。
暫く目を閉じて横になっていると、窓から風が少し感じられる。夏になると吊るすことにしている風鈴が、涼やかな音を運んでいる。
そろそろ起き上がらねば、と思いつつ、もう少し夏ばてを口実にだらしなく寝転がることに決め込んだ。
相変わらず、肉桂の香りが流れている。それに混じり、八ッ橋屋の声も聞こえてきた。菓子の届け物があるらしく、これからひと走りするという。
「涼しゅうなってからいかはったらええのに」
「いえ、お客さん待ったはりますし」
「通り雨に気ぃつけて」
またのちほど、と大家と声を交わし、自転車を走らせ去っていった。チリンチリン、というベルの音に、近所の子供たちが歓声をあげて飛びのいている。
八ッ橋屋の汗まで見える気がして、昼間から外着のまま寝ころんでいるのが贅沢なような恥ずかしいような気分になり、そっと目をあけた。
逆さの窓からは、空だけが見える。あまりに青い空に、驚くほど大きな入道雲がいつの間にか浮かんでいた。通り雨という大家の言葉を思い出して、あいかわらず的を得た天気予報にひとり笑ってしまった。
そうしているうちにまたチリンチリンと音がして、八ッ橋屋が戻ってきた。
「あれ、来てはったんか」
誰かに話しかけたかと思うと、よく知る声が答えている。
「いえ、今着いたところです。せっかくなので、いただけますか」
「酒のつまみにするんやな」
「よくおわかりで」
また部屋に泊まる気かと松村を迎えるために立ち上がり、以前置いていった酒を出して迎えてやった。いつも不意に現れ私の驚き呆れた顔を楽しんでいるが、今日は松村が目をまるくしている。
「来ると知っていたのか」
「知っていた。魔法使いの下宿に住んでいると、いろいろなことがわかるらしい」
「他に、何がわかる」
「これから、雨になる」
冗談と思ったのであろう松村が笑うのと、雫が先ほど閉めたばかりの窓ガラスを叩くのが同時であった。
「驚いた。本当に魔法を覚えてしまったようだ」
「そうだろう」
ただ寝ころんでいたら入道雲が目に入ったのだ、というのは、黙っておくことにした。肉桂の香りを肴に酒を飲みながら、珍しく首を傾げ続ける松村を眺めているのもまた、面白い。