2010/2011 初夏 薫風
図書室で調べものをしていた筈が、いつの間にか転寝をしていたらしい。まだぼんやりとした頭で慌てて項を探るも、そよぐ風の柔らかさが心地良くてついつい瞼が重くなっていく。
窓の外には、緑が鮮やかに繁っている。葉の間をすり抜けた風が、窓を通して白いカーテンを揺らしていた。
見ると、窓の近くに座る学生も、先ほどまでの私と同じ姿勢で舟を漕いでいる。この季節に勉強というのも無粋なものかもしれない、などと学生にあるまじき言い訳を思いながら、大学を後にした。
外に出ると、緑の葉はより一層鮮やかさを増して迫ってくる。どこか足取りが軽くなるような気持ちで暫く歩くと、香ばしい肉桂の香りに混ざり、別の甘い香りが漂ってきた。新しい菓子でも作り始めたのかと八ッ橋屋の軒に出ると、ここでは肉桂しかわからない。
「夏の匂いでしょう」
八ッ橋屋が、いつもと同じように手を動かしながら、笑った。
「新しい命の匂いですわ」
山に行けばさらに濃くなるとのことで、吉田山まで歩いてみることにした。
どこか青いような甘さである。風が薫っているのか、葉が薫っているのか、すっかりと薫風に包み込まれていた。
心地よさに、借りてきた本を開いて読むことにする。そういえば図書室の窓からそよいでいたのはこの風であった、と、座って考えているうちに、こちらでもまた転寝をしてしまっていた。全く呑気なものであるな、と自分でも呆れながらも、清々しい気持ちで山を後にした。
眠っていたためか、すっきりとした爽やかな心持になっていた。
四辻でまた夏の匂いが濃くなった気がすると、角を曲がった先に大家が立っていた。
「お帰りですか」
「大学に行ったものの、薫風に負けてしまいました」
本当は山にまで出かけたというのに再び風に眠気を誘われたというのは、あまりにも怠惰に思われそうで黙っておく。
「私も風に誘われて、買い物に」
見れば、大家は夏の野菜をたっぷりと買い物かごに入れている。そこからも、風と同じ匂いが漂っているのであった。
「夏の匂いですね」
「ええ。これからいただく、命の匂いです」
お一つどうぞ、と差し出された夏野菜から、若々しい香りが立ち上る。
命の匂いに包まれて眠っていたからこそ、生まれ変わった気持ちになったのかと、まだそよぎ続ける薫風の中で思った。