2012/2013 春 霞
起きると吉田山に春霞がかかっていたので、探検気分でも味わおうかと山に入ることにした。
「お出かけですか」
いつものように庭を掃いていた大家が声をかける。
「ええ、山に入ろうかと思って」
「霞がかってますから、何かに出会うたらよろしゅうお伝えくださいね」
わかりました、と戯れのような挨拶を交わし、石段をあがって山に入った。
春霞は、思ったより深く霧となって山を覆っている。これは先ほどの大家との言葉も満更では無いのでは、などと考えていると、どこからか足音が聞こえてくる。山道というのに軽い足音に、さては何か本当に出会うのであろうかと身構えていると、いつぞやの春の少女であった。
「どちらまで」
「うちに帰るとこ」
家の方角を尋ねるのも不躾であろう。少女は駆けていき、簡単に霞に紛れてしまった。
あまりも唐突に白靄の中へと入っていったので、しばし立ち尽くしてしまう。まさか、家とは天ではあるまいか、少女は天女だったのでは無いだろうか、等と考えてしまうのは、先の大家の言葉の所為だけでは無く、少女の無垢な笑顔の所為もあるに違い無い。
そのまま半時ほど歩き続けたが、とうとう少女に再び出会うことは無かった。
帰路につこうとすると、再び足音が聞こえてくる。今度は少し重そうである、天女ということは無いだろう。もしや天狗にでも出会うのかと思っていると、目の前に八ッ橋屋が現れた。聞けば、何度か届け物などで山に足を運んでいるというので、少女のことを尋ねてみた。
「ああ、それは、向こうの道降りたとこに住んでる子ですわ」
「向こうの道」
「今日は霞で見えにくいんやけれど、山頂から降りる道がついてますよ」
この天気では山頂などは私の居る場所からは到底見えまい。迷うことの無いように、低い場所をさ迷っていたのだ。余程、少女はこの辺りに長けているのであろう。そう言うと、八ッ橋屋は笑って答えた。
「ここに住んでるもんは、目閉じてても行けるんでしょうな」
出入りしているとはいえ、中に住んでいる訳では無い八ッ橋屋にとっても、霞は目隠しとなってしまうのだそうだ。
山の頂から家路へと走る少女は、霞の中でも道を違えない。古人は天女が空へと戻らぬよう雲に依頼をしていたが、それも少女の前では無意味なのであろう。 優秀な天女に会ったものだな、と私も見えない山の先へと目を向けた。